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首提灯


 剣の達人に斬られたんじゃあしょうがない。斬られた事さえ判らない。
 
 って事で、落語には、なまくら包丁で、毎夜、ムシロに包まった乞食を叩きに来るサムライが出て来る話が多いのですが、中には、「首提灯(くびちょうちん)」と云う演目のように、剣の達人が出て来て、斬られた事さえ判らないと云うような、見事に斬られちゃう演目もあります。
 
 「首提灯」は、四代目 橘家圓蔵(1864~1922。北品川に住んでいたので、俗に品川の圓蔵)が得意にしていたので、三遊の持ち根多と云えます。三遊亭圓生、林家正蔵、古今亭志ん朝の名演の映像や音源が残っています。志ん朝は三遊派ですが、正蔵は柳派なのに何で? とお思いになる方もいらっしゃるかも知れませんが、正蔵は元々は、後に三代目 圓遊になった、二代目 三福に17歳の時に入門して「三遊亭福よし」を名乗ったので、三遊派なんです。
 
 正蔵が22歳の時の1917年1月には、師匠共々、品川の圓蔵の内輪弟子になりました。圓生は、子供の頃に、母親と共に圓蔵の内輪となり、圓蔵一門の色物として、豊竹豆仮名太夫の名で子供義太夫として、三味線の母親と共に四歳頃から出演していましたので、圓生も正蔵も圓蔵一門なんです。
 
 正蔵が21歳で圓蔵一門に加わった時は、圓生は九歳で噺家に転向して、橘家小圓蔵を名乗っていた、16歳の二ツ目でした。圓生は、実年齢では正蔵より五歳年下ですが、圓蔵門下に十年以上居て小圓蔵を名乗っていましたから、まだ二ツ目になっていない正蔵の兄さんでした。
 
 正蔵は、圓蔵一門に加わった翌年の1918年2月に、橘家二三蔵を名乗り、22歳で二ツ目になりました。翌年の四月には、23歳で三代目 三遊亭圓楽を襲名。順当に三遊本家内で地位を確立するのかと思われましたが、1922年2月に師匠の圓蔵が亡くなったために、柳派に移籍し、三代目 小さん(1857~1930)の預かり弟子になります。
 
 圓蔵名跡はその後、圓生の兄弟子で、圓生の母親と結婚したために、圓生の義父となった、後の五代目 圓生が五代目 圓蔵となり、1925年1月に、五代目 圓蔵が五代目 圓生を襲名した事により、空き名跡となった圓蔵名跡の六代目を圓生が、24歳で襲名しました。その後の圓生は、1941年5月に、40歳で六代目 圓生を襲名し、三遊本家の大看板となりました。
 
 一方、三代目 小さんの預かり弟子になった正蔵はどうなったのかと云うと・・・兄弟子で、「ちりとてちん」の作者の小はんや、小山三(こさんざ。後の五代目 今輔)と共に、30歳の時に「落語革新派」と云う革命軍を結成しましたが、四ヶ月でポシャり、その後、東京落語協会に復帰して、三代目の下で兄弟子だった、四代目 蝶花楼馬楽(後の四代目 小さん)の内輪弟子になります。
 
 昭和初期は、現代に於けるリーマン・ショックのような感じで世界経済が落ち込みましたが、日本とて例外ではなく、仕事が無くて多くの噺家が廃業や転業を余儀無くされました。正蔵も例外ではなく、落語だけでは生活できないので、「とんがり会」と云う、芝居脚本の朗読会や、徳川夢声の漫談研究会に入り、漫談の修行をしたりしました。よく、正蔵の事を「彦六」と云ったりする人がいるのですが、それは間違いです。「彦六」ってのは噺家の名跡ではありません。「彦六、大いに笑う」と云う、徳川夢声の戦前の映画の役名を、最晩年の正蔵が洒落で使っただけなんです。
 
 で、1928年に三代目が存命中に、四代目 馬楽に小さん名跡の四代目を譲ったので、正蔵は、空き名跡となった馬楽の五代目を襲名しました。途中戦争があり、55歳の昭和25(1950)年に、八代目 林家正蔵を襲名しました。何故、五代目 小さんじゃないの? って事に関しては、長くなりますので、この記事では言及しません。
 
 もう、滅茶苦茶尻切れトンボで、記事の体をなしてませんが・・・一記事にたった五千字しか書けないヤフーブログで、論文を展開する訳には行きませんので、ま、ブログの記事程度では、こんなもんでしょ。って事で、品川の圓蔵門下の、有能な門下生だった二人は、数十年の歳月を経て、圓生は三遊の親分となり、一方の正蔵は、柳の親分となった訳です。いや~落語の歴史って、ロマンがあるなぁ~って事で・・・おしまい(^ω^)
http://z2tw.up.seesaa.net/i/E4B889E9818AE4BAADE59C93E7949F20E9A696E68F90E781AF.wma 28:34 首提灯 / 三遊亭圓生
 データ・・・六代目 三遊亭圓生 明治33(1900)年9月3日~昭和54(1979)年9月3日 享年79 前名=六代目 橘家圓蔵 出囃子=正札附 本名=山崎松尾

コメント

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噺家の名称とか、柳派三遊派とか調べていくと、色々と面白いですね。正蔵師匠が八代目を襲名する時に「柳派の自分が林家は名乗れないと言ったと言われていますけど。それも面白いですね。(^o^)
今まで、貴重な音源を聴かせて戴き有難うございました。
これからも遊びに来ますので、宜しくお願い致します。m(-_-)m

No title

圓生師匠ですね♪
残念…今週末までお預けです。
明日からも聞かせていただける音源だと思いますので楽しみにしています。

No title

*菖蒲園さん。。
落語の演目そのものばかりではなくて、落語界の紆余曲折ってのも、結構落語ファンには、面白い話なんですよね(^∇^)

落語の歴史を遡って行くと、結構いろんなドラマがあるんですよね。落語は面白いから好きだってんでもいいんですが、それだけで終わらせちゃもったいないくらいの歴史ロマンが落語にはあると思います(^∇^)

その一つの手掛かりに、「噺家の名跡」ってのがあると思います。圓生さんが落語協会を脱退した時に、川柳さんの「さん生」名跡を返納させた理由に付いては、ほとんど語られていないと思いますが、さん生名跡ってのは、圓生さんが心酔した品川の圓蔵が名乗った名前なんです。だから、四代目 小さんが、三代目が初代を名乗った小三治名跡にこだわって、三語楼一門に移ってしまった小三治名跡を、強引に柳家本家に取り戻したのと同様に、圓生さんとしては、師匠の圓蔵が名乗った「さん生名跡」が柳派にあるってのが我慢できなかった筈なんです。

No title

*続き。。
もし、圓生さんがあと五年存命だったら、柳に移ってしまった圓蔵名跡も、三遊に取り戻していた筈です。圓蔵名跡は本来、文楽との話し合いで、百生に小南を名乗らせるための交換名跡だったんですけどね・・・

いつもコンスタントにコメントを下さって、ありがとうございます。今日で、サーバ廃止に伴い、ウチのほとんどの音源は再できなくなるはずです。午前零時になった時に、どのようになるのか予測できないので、本格的な修復行動は取ってませんが、いずれ、ちゃんと再生出来るようにしますので、ご安心下さい。

レアアースの輸出を止められてビビってるような民主党政権とは根性が違うんです。日本は戦争ですべてをなくした状態から経済大国になったのです。今はレアアースを使わない技術を開発するチャンスの時期なんです。それが出来れば、日本はまた経済大国として復活できます(^-^)v

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*しゅうさん。。
はは^^

詳しい解説はしませんが、ある程度パソコンに詳しい方ならば、どの音源が再生できなくなるのかは、お判りですね。そう。infoseekのサーバが廃止になり、seesaaが新規サーバだと云う事です。

五年半前に使い始めたinfoseekサーバでしたが、最初は削除に怯えつつ細々とやってましたが、やがて使えるサーバだと判り、ネット上に、5ギガバイト以上の音源データベースを構築しました。しかし、大手の楽天に買収され、利益の出ない部門は、切捨てって事なんです(^ω^)

乗り換えたseesaaには、250メガ程度を上げましたが、まだ使えるサーバかどうかの確信を得ていません。折角根性込めて120本以上の動画を上げたのに、無断で削除するような、つべのような動画サーバじゃ永続的に使い続ける事は出来ないんです。ネットの音源や動画を上げている職人の苦悩なんて・・・それをやった事の無い人には、多分、理解できないと思います(^ω^)

そんなの関係ねぇ。ただ上げるだけじゃないかと思うかも知れませんが、そんなレベルのものは、すぐに削除されちゃいます(^ω^)

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今夜もショートで。
三遊亭か林家かは別にして、この噺は、ちょいと深刻ですね。

別便あり

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「首提灯」となんの関わりもありませんが、1960年代後半から70年代の深夜放送を風靡した文化放送のパックインミュージックの野沢那智さんが亡くなられましたね。相方の白石冬美さんは静岡の出身で、私の母の高校の後輩でした。野沢さんは早稲田の出で、私の父の後輩でした。ですから私はパックインミュージックでは「ナチ・チャコのサラブレッド」という今で言う「ラジオネーム」で、結構投稿を読んでもらいました。
深夜放送という一時代の文化に「薮」さんが記録をお残しでしたら、アップしていただけると幸いです。1970年前後10年間の世間の最も動乱していた時代のサブカルチャーとして価値はあると思います。

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*キャバンさん。。
この演目のマクラでは、上下二つに斬られた人間が、上半身は銭湯の番台、下半身はコンニャク踏みの仕事をやっていると云うのをやりますが、斬られても生きていると云う発想は落語国的ではあるのですが、斬られても生きているのなら、切腹の話が成立しなくなっちゃいますね。

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*キャバンさん。。
私は中学生時代にオープンリールのテープレコーダーを手に入れて、当時の私の最大の遊び道具になりましたが・・・残念ながら、切りがないので、深夜放送のエアチェックまではやってません。と云うか、大学に入ってからは、ほとんど深夜放送を聴かなくなってました。赤坂のTBSへは、試写会などを毎週のように見に行っていたのですが、パックは、深夜の時間帯のライブ番組ですから、スタジオ見学は、させていなかった筈です

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TBしました。

No title

やっと聞かせていただきました。
風邪気味と仰っていらっしゃいますが、この日の2席目との事。
どこか内輪の落語会のご様子ですね。
良い出来ではないでょうか。

落語家の名跡については私は全く存じ上げませんので申し訳ありません。
圓生師匠がが落語協会を脱退した辺りの所は実際に見聞きしたことですしその後も色々と耳にして
どこの世界も(私のいました邦楽・日舞の世界)でも名跡に絡んだごたごたが有りますね。
私の師匠もその争いに敗れ破門になり別派を興し…失意のまま不慮の事故で亡くなりました。

圓生師匠にあの騒動でご心痛が無かったらもっと長生きして、沢山の名演を聞かせていただけたのかと思うと残念でなりません。
そういう事からも私はある2人を許せないのです。

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*けんちゃん。。
TB先の記事へ、後ほどお伺いします。

No title

*しゅうさん。。
圓生さんは風邪気味と仰ってますが、この音源の出来は良いですよね。でも、後半部分で、針飛びが何箇所かあってすいません(^ω^)
志ん朝の映像版を上げてありますが、この演目は、切られた首がどうなるのかってのが重要なので、音源だけではなかなか判りにくいですね。

圓生さんは79歳の誕生日の日に亡くなりましたが、もうちょっと長生きしてってのもありましたが、79歳で最後までブレずに高座ができたと云う事は、噺家としては大往生だと思います。志ん生にしろ文楽にしろ正蔵にしろ小さんにしろ、晩年は高齢の為に本来の味が出せなくなってしまったのに、圓生さんは最後まで元気でした。千葉県柏市の公会堂かなんかでやった落語会の後でポックリ逝っちゃったんだと思いましたが、噺家の最後としては、理想的な亡くなり方だったんだと思います。

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