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志ん生の稽古場


 志ん生はご贔屓に金を出してもらって日暮里に家も持つまでは、随分と夜逃げ紛いの引越しを繰り返したようです。

貧乏だったから家財道具なんか持ってないので、借家を転々としていたらしい。長女の美津子さん、二女の喜美子さん。そして長男の馬生が誕生(1928年生)した時には、笹塚の借家に住んでいた。

その頃の志ん生は昭和初期の不景気で多くの噺家が落語では食えないので離職を余儀なくされる中、一年間講談に転向しました。

そんな状態ですから、志ん生の美濃部家は長男の馬生が生まれた三ヶ月目に、女房のおりんさんと二人の女の子を連れて笹塚の借家を夜逃げし、墨田区業平へ引越しました。

今でこそスカイツリーが出来たので業平はおされ~な場所のようになってますが、かつては関東大震災の瓦礫を集積したゴミ溜場であり、その湿気の多い劣悪な環境に仮設住宅を造ったんです。

しかしあまりにも劣悪な環境なので誰もその仮設住宅には住もうとしない。そこで人間が住めると云う証拠の為に、無料の入居者を募集した。その募集に応募したのが志ん生の美濃部家でした。俗に云うなめくじ長屋です(^∇^)

44歳になった志ん生は神田立花亭で七代目 馬生の襲名披露をやり、独演会まで出きるようになってました。八年間なめくじ長屋で我慢をし、やっと噺家としてやって行けるようになった志ん生は、その後、浅草と駒込と千駄木に転居。

千駄木にいた時にあまりにも空襲がひどいので、臆病な志ん生は圓生と共に慰問と云う名目で満州へ旅立った。その後音信不通になり、志ん生死亡説まで出た空白の600日でした。

昭和26(1951)年、志ん生61歳の時に初めて日暮里に自分の家を持ちました。もっとも志ん生が自力で家を買ったのではなくて、ご贔屓に作ってもらった家でした。

志ん生長女の美津子さんによると、志ん生は落語の稽古の邪魔をされたくなかったので、自宅から富士見坂を登って諏方神社隅にあったJRの線路を見下ろすベンチで稽古をしていたようです。

 撮影データ・・・平成29(2017)年8月25日(金)午後一時半 荒川区諏方神社

コメント

No title

諏訪神社の取材ご苦労様です。志ん生師匠の稽古していたベンチ、消えたのは残念ですね。
あの京浜東北線が走る線路に向かって、火焔太鼓やってたのかな?

No title

諏訪神社の線路際の光景が、飛鳥山のやはり線路際の光景とそっくりえした!
しかし、志ん生師ゆかりのベンチを撤去ぢてしまうなんて無粋ですね(^^)

No title

おはようございます。(*^-^*)
以前ご取材された時には
師匠のベンチがありましたよね。(*ノω<*) アチャー
神楽殿も拝殿も情緒がありますね。+.゚(*´∀`)b゚+.゚☆
少し小ぶりですがお神輿さんも立派です。
まだまだセミが賑やかに鳴いてますね。w(゜o゜*)w
暑い中ご取材お疲れさまでした。(^_-)-☆

No title

*Marsさん。。
正式には諏方神社と云う言遍(ごんべん)のない表記なんですが、諏訪神社と云う表記も神社の鳥居の左下にあるので、どちらでもいいのかも知れません。

志ん生が諏方神社で稽古したのは日暮里に住んだ61歳の時からです。その時は末っ子の志ん朝が13歳の中学生。お父ちゃん、将棋をやろうよってうるさかったんでしょうね(^ω^)

No title

本所(ホンジョウ)に、蚊の居なくなる、大晦日。

No title

*菖蒲園さん。。
諏方神社も飛鳥山公園も荒川区なんですが、そのちょいと南が台東区。台東区と云うのは武蔵野台地の上野台地の東と云う意味です。だからあの部分のJRの線路ってのは、台地を走らせるにはトンネルを掘らなければならないので、南北の低地を走ってるんですね。

湯島天神も神田明神も本郷台地の上にあるから、東側の低地へは湯島天神の男坂のようにみんな急坂ですね。その急坂を削って緩やかにしたのが春日通りの切通しです(^∇^)

残念ながら志ん生は文化人じゃないんです。江戸東京博物館が噺家で唯一文化人としているのは圓朝だけです。だから台東区教育委員会は、全生庵の前に圓朝と山岡鉄舟の説明看板を設置しています。「志ん生由縁のなめくじ長屋跡」なんて看板は墨田区は設置してない(^ω^)

No title

*まーぶるさん。。
この諏方神社は、お祭り以外の時は根津神社同様にほとんど人のいない静かな神社です。だから、うるさいのが嫌いな志ん生が好んでこの神社の境内で落語の稽古をしたんだと思います。

志ん生の家から富士見坂を登って歩いてくれば、諏方神社は十分くらいだった筈です。

No title

*けんちゃん。。
本所に蚊がいなくなっても、業平の湿地帯には年間を通して蚊がいたそうです。タンポポのおひたしが貧乏だった美濃部家の主菜。飯に集った蚊からたんぱく質を得ていた(^ω^)

馬生の証言によると、壁に這うナメクジは十センチ以上の大きさで、キチキチと云いながら部屋の中を飛んだと云う(^ω^)

もしかしたら志ん生はナメクジを塩辛の替わりに食ったかもしれない(^ω^)

No title

この記事を読んでいて不思議に思ったことがあります。
それは私にはどうしても「志ん生の稽古」というのがイメージがわかないのです。円生、文楽、正蔵、小さん、などは必至で稽古したのでしょう。それはイメージが湧きます。
しかし、こと志ん生に関しては、かれが「稽古」をしているという風景がどうしても見えてこない。
それが自宅であってもJRの線路を見下ろすところであっても、どこかの地下の洞窟であっても。
何度も志ん生の高座に接しても、彼が稽古をしていたなんてどうしても思えない。
どうしてなんだろう?

No title

*けんちゃん。。
志ん生が稽古をしている音源が一つだけ残っています。それは、71歳の時の12月に脳卒中で倒れたあとに、三ヶ月入院し、日暮里の自宅に帰ってから(1962年)、高座に復帰すべくゆっくりですが懸命に落語の稽古をしてました。

その結果、その年の11月に新宿末広亭の高座に復帰できたのです。その間の様々な状況に付いては、このブログの過去記事をご覧いただければお判りになります。

もちろん志ん生が日暮里へ引越したのは61歳の時でしたから、新たな演目を仕入れるための稽古ではないと思います。法師さんなら志ん生と文楽の違いは十分にお判りでしょうが、志ん生は高座百遍なんです。文楽のように完全に仕上げてから高座に掛けたのではなくて、志ん生は憶えた落語はすぐに高座に掛けて客の反応を見た。

納得行かない部分をやり直して次ぎの高座に掛ける。死ぬまでやり方を考え続けたのが志ん生落語です。

No title

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納得行かない部分をやり直して次ぎの高座に掛ける。死ぬまでやり方を考え続けたのが志ん生落語です。
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全くその通りと思います。ただ志ん生はその時その時の気分に流されたことも多かった。
「替わり目」なんか何度高座で聴いたでしょうか。その都度違うのです。
カミサン(当時20代)の結論は志ん生は「かわいい」ということで、替わり目を何回聞いてもかわいさには変わりはないが、いつも違った替わり目でした。

No title

*けんちゃん。。
残念ながら私は年代的に志ん生の高座を見た事はありません。ただ一度だけ、志ん生が60代後半で絶頂期だった正月に、私に落語を教えてくれたおばさん(親父の妹)に連れられて上野へ行きました。その時に鈴本の大行列に並んだのですが、その頃から行列や待つのが嫌いだった藪さんは、鈴本の行列にうんざりしてレストランでホットケーキを食べました。

あの時我慢して行列に並んでいれば、絶頂期の志ん生を聴く事が出来たかも知れないのが残念です(^ω^)

志ん生は文楽や圓生のように努力をして自分のスタイルを作り上げた秀才落語家ではありません。志ん生は晩年の映像で語ってますが、落語が好きだったからただ落語を覚えて語りたかっただけだと云ってます。

その意味で云うと志ん生は文楽や圓生のような秀才ではなくて落語の天才なんですよ。志ん生ファンは志ん生が落語をやらなくても構わない。志ん生が高座にいる姿を見ているだけで心がハッピーになる。そんな噺家は他にはいない。

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